昼どきの専門店に入ると、まず通されるのは席ではなく、具材の棚の前だ。トングを持って、春雨、青梗菜、きくらげ、うずら、肉団子……と、器に入れていく。レジで辛さと痺れの段階を告げる。席に着くころには、目の前に出てくる一杯の中身は、さっき自分が選んだものだけになっている。麻辣湯(マーラータン)の店は、たいていこの順番で回る。
中華の勢いが落ち着くなかで、麻辣湯だけ店が増えている
コロナ禍以降、外食の中華は一頃の勢いが落ち着いたと言われる。そのなかでも麻辣湯だけは別で、フードジャーナリストの山路力也氏は、専門店の新規開業が2022年から2025年にかけて増え続けている、と指摘している。背景として挙げられているのは、韓国での流行が日本に波及したこと、SNSやメディアでの拡散、若い女性を中心とした支持、そして単品メニュー化とセルフ業態による人件費の抑えやすさ。「ヘルシーで低カロリーというイメージ」も健康志向の層に刺さっている、と山路氏は書いている。別の調査では、2026年上半期に10〜20代が選んだグルメの1位に麻辣湯(マーラータン)が挙がったとも報じられている。
コロナ後に中華料理店の勢いが落ち着くなかで、麻辣湯の専門店は2022〜2025年にかけて新規開業が増加。具材や辛さを自分で選ぶカスタマイズ性が若年層に支持され、「地域の流行」から「全国的な食文化」へ移りつつある。(要点は編集部で要約)
出典:Yahoo!ニュース エキスパート/山路力也「ブームから食文化へ定着か 『麻辣湯』専門店が急増する理由と今後の展望は」(2026年3月22日)/10〜20代の順位は commercepick「10代〜20代が選ぶ2026年上半期トレンドランキング」(日本インフォメーション調査、2026年)
売っているのは「スープ」ではなく「選ぶ工程」
麻辣湯を食べに行くという行為の中心は、実はスープそのものではなく、その手前の「選ぶ時間」にあるとTONEは考えている。何を入れて、何を入れないか。辛さはどこまで攻めるか。痺れは要るか。棚の前でトングを動かしている数分は、小さな自己申告だ。「私はこういう一杯が好き」という基準を、その場で言葉にして組み立てている。出てきた一杯が自分の選択そのものだから、外れても納得がいくし、当たれば「自分の勝ち」になる。
これは、博報堂生活総合研究所が2026年の生活者像として掲げた「みんなの最適解から、自分だけの正解へ」(博報堂「2026年の生活者潮流の展望」)という流れの、いちばん小さくて分かりやすい実践だと言っていい。ランキング上位の鉄板メニューを頼むのではなく、自分で配合を決める。カスタムポテトやカスタムドリンクに行列ができるのと、根は同じだ。「量から満足へ」「定番からカスタムへ」という言い方も、要は「決めるのは自分」という一点に集約されていく。
名前が独り歩きするリスクはある。それでも「自分で決めた」体験は冷めにくい
山路氏は別の記事(Yahoo!ニュース エキスパート/山路力也「空前の『麻辣湯ブーム』による"暴走"が加速」)で、ブームに乗って「麻辣湯」と名乗れば中身が何でも許されるような風潮が出てきていることにも警鐘を鳴らしている。名前だけが先に広まり、体験の質が追いつかないと、飽きも早い。それはその通りだと思う。ただ、店ごとの当たり外れはあっても、「棚の前で自分の一杯を組み立てた」という体験の手ざわりは、わりと長く残る。人は、自分で決めたものには簡単には冷めない。
次に専門店の前を通って行列を見かけたら、それは「辛いスープを待つ列」というより、「自分の一杯を設計する順番を待つ列」だと思って眺めてみてほしい。並んでいる理由の半分は、味の前にある。